吉向松月窯の歴史をお聞きしました
言い伝えによると、窯の始まりは享和4年(江戸末期)。伊予大洲藩出身(現在の愛媛県)の戸田治兵衛が、京都に住んでいた親族の瓦職人をたより、修行に打ちこみ、その後、十三の廃寺を借りて窯を開いたとされます。
十一代将軍家斉公の太政大臣のお祝いに際し、大阪城代、水野忠邦侯の推挙を得て、鶴と亀の食籠を献上したところ、亀を大変気に入り、亀甲、すなわち吉に向うにちなんで「吉向」の窯号を賜りました。
その亀の食籠は、残念ながら現存していないとのことですが、復元した作品を展示室で観ることができます。
吉向松月窯の作品は、世界的に評価が高く、ボストン美術館のモースコレクションやミュンヘン五大陸博物館のシーボルトコレクションにも収蔵されています。
初代は日本各地で精力的に活動し、現在の広島や奈良を経て、江戸の隅田川のほとりで焼き物をはじめます。
そのころ須坂藩から招聘され、現在の長野県須坂市に窯を築き、須坂市では現代においても通ずる名声を得ました。
日本各地で心血を注いだ結果、吉向焼は「江戸の焼き物」「大阪の焼き物」「須坂の焼き物」「岩国の焼き物」などと言われるに至り、方々の土地で根づいていったのです。
二代、三代目と大阪の十三へ戻り、順調に焼き物を焼いていました。しかし四代目の頃、幕末の混迷期を迎えます。鳥羽伏見の戦いでの幕府軍が敗走後、焼き討ちにあい、家が壊されてしまったのです。
その後、大変な苦労の末、十三の窯を再建しましたが、今度は明治十八年の明治大洪水で淀川が決壊、十三の窯が流されてしまいました。さらに、窯のあった場所が新淀川になることが決まり、再建もかなわぬこととなったのです。
やむを得ず、天王寺周辺を転々とし、明治二十四年にようやく高津神社に近くに落ち着きました。
しばらくの間、そちらで焼いていたのですが、市内の都市化が進むにつれて、窯を維持することが難しくなってしまいました。
ちょうどその頃、当時の京阪電車社長に「枚方へ来ないか」と打診されます。そのバックアップを受け、枚方へと窯を移し、新たなスタートを切りました。
この後、吉向焼は枚方市で成功を収め、昭和45年ごろには工場も建設。大量生産を行い、多くの職人を抱える窯へと発展していきます。
また、枚方時代には、明治天皇の姉君、伏見文秀女王殿下のお庭焼をお手伝いした御縁で、吉向窯に御成頂き、秀松軒の軒号を賜りました。
枚方市では70年ほど窯を営んでいましたが、当初は山の中の一軒家だった環境も時代とともに宅地化が進み、気が付けば公害問題などの苦情が増え、移転を検討せざるを得ない状況となってしまいました。
そのようなときに、お隣の交野市で芸術村とでもいうような構想が持ちあがり、当時の交野市長からお話があったこと、そして、交野は正倉院三彩の陶土の採取地であったという好条件もあり、交野市への移転を決意しました。
約二年の歳月を掛け、昭和55年に交野市に移転。先述の芸術村構想は実現しなかったものの、新たな土地で吉向焼の窯を開くことができました。
十三からはじまり様々な地を経て交野へ、初代が焼き始めてから二百余年の時がながれました。
現代では九世 吉向松月(孝造)が伝統を守りつつも、果敢に新しい作風にも挑戦し、風光明媚な交野の里で日夜創作に励んでいます。