第4回 交野史跡めぐり(私市コース)が行われました
◆11月11日(金)、10:00~13:00 交野史跡めぐり 第4回 私市コースがが、好天のもと、参加者43名で、行われました。
◆案内の熱弁は、ガイドの桝田さん、山崎さん。
◆最初に訪れるのは、天田神社。美味しい米のとれる豊かな田を、古代人は「甘田」(あまだ)と呼び、それが、「天田」にかわった、といわれます。
△本殿の軒下に、当神社のダンジリの絵が掲げられています。
◆つぎば、獅子窟寺です。お地蔵さんのところから始まる急な坂道を、へとへとになって、登り、本殿につきます。
▽この寺院は、奈良時代、聖武天皇の勅願により、僧行基が建てたといわれます。
大坂夏の陣のとき、豊臣方からの協力を断ったので、全山に火を点けられました。
◆ガイドの桝田さんの指さす方向に、『獅子窟』があります。獅子が吠える形に似ているので、そう呼ばれます。平安時代、弘法大師がこの岩で修行したとき、天から北斗星が星田地区の三ヵ所に降ったという『八丁三所』(はっちょうみどころ)伝説があります。※今日は拝観していません。
◆平安時代作の国宝薬師如来坐像も祀られています。※今日は、拝観していません。
▽私市共同墓地には、大阪府最古、鎌倉時代の『弘安地蔵』があります。右手に錫杖をもたない古いスタイルの地蔵像といわれます。
◆普通の共同墓地に、鎌倉時代のお地蔵さんが残っている点、私市区の歴史の古さを現わしています。
▽国道168号線をはさんだ隣の『私市水辺プラザ』には、在原業平の和歌の歌碑が建っています。
『狩り暮らし 棚機(たなばた)つ女(め)に宿からむ 天の川原にわれは来にけり』(古今集)
この和歌によって、交野が原は七夕伝説の里として、京都の平安貴族の間で有名になっていきます。
△この和歌は、業平が、惟喬親王と狩りをしたとき、親王の求めに応じて詠った和歌ですが、ガイドの桝田さんが、『惟喬親王の悲劇』を説明すると、皆、乗り出すようにして、聞き入っていました。
◆近年、大出水によって削らた天野川の河岸を調査した研究によると、鎌倉時代あたりから、急に土砂は堆積した跡が見られるといいます。
◆江戸時代、ここを旅した学者貝原益軒は、天野川の川原の砂の美しさを賞賛していますが、一度出水すると洪水になり、天野川の砂防は、昔から村の安全の要でした。
◆その証拠が、『私市水辺プラザ』近辺に残っています。
▽水辺プラザのすぐ上流にある『天野川砂防堰堤』もその一つで、大阪府下最古の現役砂防堰堤といわれます。
▽『尺治川砂防堰堤』も、その一つですが、水辺プラザ建設のとき、尺治川の流れが変更されたので、今は、昔の形を留めるだけになっています。
▽尺治川の上流には、『尺治川底固工』があります。川底に、四角い石が丁寧に敷き詰められています。その横に、『登録有形文化財(文化庁)』を現わすプレートが貼りつけてあります。これは、『貴重な国民的財産だ』と書かれています。
◆これら三つは『登録有形文化財』に指定されており、明治時代、日本の砂防工事の指導に当ったオランダの砂防技師ヨハネス・レ・ゲーテか、そのグループが工事した伝わります。
▽奈良時代、大化改新のとき、交野にも条里制が敷かれたといわれます。
京都では、北から一条、二条と南へ下がりますが、交野では、南の私市から一条、二条と北へ上り、枚方へ至ります。
◆ここ私市が一条、交野市駅の通りが四条、郡津駅の近くの通りが五条で、その石碑が建てられています。これらの石碑があることで、「ここが一条だった」と分かります。
◆これらは、古文化同好会の諸先輩が、この70年ほどの間で設置されたものです。これが「まちかどの歴史記録」となっており、大変貴重な市民文化財だと思います。
▽一条碑から50メートルほど歩くと、廃千手寺跡があります。その前にも石碑が建てられており、『この付近亀山上皇駅跡私市観音寺』と読め、その横には『愛宕山供燈』(京都の愛宕山は火の用心の神様ですが、昔、交野からは遠いので、ここで灯をともして安全祈願しました)という碑もあり、まるで『まち角歴史博物館』です。古文化同好会の先輩の『郷土歴史愛』にまさに脱帽です。
▽おしまいが、『大阪まちかど百選』に選ばれた『私市三丁目』のまち並みです。ここのまち並みも、何度か家を改修されるのを見ていますが、まち並み保存に留意され、白壁・杉板の伝統様式を守っておられます。
◆まさに、『ローマは一日にして成らず』を実感させられる交野史跡めぐりでした。
◆獅子窟寺の写真の一部は、観光協会の谷 泰乃さんからの提供です。◆「愛宕山供燈」の写真は、観光協会の星野森翔子さんからの提供です。
◆ご覧いただき、ありがとうございます。