第2回 交野史跡めぐりが行われました

◆7月8日(金) 10:00~12:00 参加者40名 第二回交野史跡めぐり「私部コース」が行われました。

◆前回好評のため、今回も、多くの参加申し込みをいただきました。

◆参加申し込みについてのお願いです。
初回の申し込み時、一部、「全8回参加申し込みOK」として受付させて頂いた方があります。しかし、多くの市民の方にご参加頂くのが趣旨ですから、「都度申し込み」が原則です。1度でも欠席された場合は、改めて申し込み頂きますようお願いいたします。

◆今回の天候は薄曇り、熱射病の心配もなく、無事、終了しました。ご参加の皆さん、ありがとうございました。

◆「戦国時代の私部」
この「交野史跡めぐり」は、史跡を、ただ巡るのでなく、的を絞って話題とします。前回の「星田コース」は「徳川家康」でした。
ガイドの桝田さん山崎さんは、「私部コース」は、「戦国時代の私部」にフォカスし、私部城について、詳しく案内しました。

◆私部城
私部城は、1568年ころ、城主安見右近が築きました。織田信長が、将軍足利義昭をたて、上洛してきたころです。東西400m、南北300m、周囲を深い泥沼に囲まれ、石垣も天守閣もない、土でできた平地の城で、現存するのは、大阪府ではここだけ、奇跡的といわれます。初めての瓦ぶきとされる安土城の約10年まえの築城ですが、城跡で瓦が見つかっています。小さいながら、難攻不落、一度も落城を経験していません。


▲本郭と堀跡の泥田(北村氏所有)

◆安見右近 松永久秀 織田信長
私部城を築いたころ、右近は、松永久秀の家臣でした。後に、久秀は、「将軍足利義輝を殺した。東大寺南大門を焼いた。信長を二度裏切った大悪党」とされますが、三好長慶のもとで勢力を伸ばし、当時は、奈良の多門城の城主でした。

久秀は、「信長上洛」と聞くと、勢力拡大のチャンスとばかりに信長に味方しますが、信長は、上洛すると、すぐに浄土真宗の石山本願寺と敵対し、石山合戦が始まります。信長・家康の兵力約7万に対し、本願寺に味方する大名たちの勢力は、ほぼ互角。そこへ、本願寺縁故の武田信玄、2万5千の兵が、本願寺の要請を受けて上洛へと動きます。

「信長危うし」と見た久秀は、裏切りを決意します。早速、右近を多門城に呼び出し、信長に反旗を翻すように迫ります。しかし、青年武将右近は、信長の筆頭家臣佐久間信盛の娘と結婚し、男子が生まれたばかり、妻や子のため、それはできません。結局、1571年、切腹させられます。

右近を切腹に追いやると、久秀と子の久道は、二度にわたり、私部城へ攻め入ります。
私部城は、石山合戦を有利に戦う重要な拠点の城だったのです。
右近の妻と、おそらく右近の血筋とみられる新城主安見新七郎は、先ず、自力で城を守りぬきます。二度目攻められたとき、信長は、佐久間信盛、柴田勝家、将軍義昭の武将たちを加勢させます。信長軍が、敵の砦を包囲し猪垣を結い廻らしておくと、敵勢は風雨に紛れて退散します。

信長は、石山合戦、大坂湾の海戦でも有利に立つため、九鬼嘉隆らに大船を建造させていました。でき上ったので堺へ検分に出かけ、上出来だったので、関係者に恩賞を与えるなどし、今井宗久の屋敷で茶を献じられ、その帰途、新七郎が城主の私部城で休憩します。私部城城主は、当時、今井宗久にも並ぶ扱いを、信長から受けていたことがわかります。

◆石山合戦の講和で、私部城の役割も終わる
1580年、石山合戦の和睦が成立すると、合戦の重要拠点とされた私部城も役割を終え、廃城となったと見られますが、夫亡き後、右近の妻がよく守った城として有名になり、後世、「後家が城」と呼ばれるようになります。


▲安見右近(想像図)


▲錦絵の久秀


▲最近発見された久秀肖像画


▲織田信長


△今回も、早くから、参加者が集まりました。

『青年の家』の裏口は、昔の『山根街道』に面しています。その先に、『代官屋敷』があるなど、平安時代からのメイン街道でした。しばらく行くと、『大矢家の匂いヒバ』があります。
なぜ、『大矢家』と呼ぶか、言い伝えが残っています。(ガイドチラシ参照)

 


△代官屋敷は、交野市の吉田学芸員がガイドしてくださいました。


△写真上:日本一長いと言われる長屋門。
△写真中:門を入ると、江戸時代使われたカゴが釣ってあります。
△写真下:『長屋門』の裏は、奉公人などが住まいする、いわゆる『長屋』になっています。


△『山根街道』のこのあたりは、近くに代官屋敷があって寺院も多いのでいわば繁華街、政府の告知板『高札』が立てられたので、『札の辻』と呼ばれました。


△無量光寺の鐘楼
この寺は、浄土真宗本願寺派。上京してすぐに『石山合戦』を起こす織田信長、配下の安見右近とは、敵対することになります。
創建は、室町時代初期とされますが、1730年、三度目の再建がなされ、いまも残る梵鐘が鋳造されます。そこには、寺の初期から二百数十年もの歴史が刻まれています。 そのなかに、石山合戦を語るくだりがあります。
『無量光寺住職 覚心は、この戦いの防御に貢献し、講和となった。当時、私部に城を築いて織田信長に属していた安見右近は、この覚心の所為を怒って殺そうとした』『これを人づてに知った覚心は、二十余年の逃亡後、ようやく寺に戻り、苦心して再建した』とあります。

歴史事実では、石山合戦の講和は、右近が久秀に切腹させられて9年のちです。
再々建の1730年といえば、石山合戦講和の150年ものあとです。無量光寺が、城主安見右近の怒りを、いかに重大視していたかがわかります。


△光通寺の石垣地蔵
石垣に、2体、仏像が刻まれています。(ガイドチラシ参照)


△今の光通寺の位置は、昔の私部城の、東西約400m、南北300mの東南の端の台地にあり、見通しが利くので見張りの建物が置かれ、『出郭』(でくるわ)と呼ばれました。

しかし、私部城のほとんどは、もと光通寺の寺領で、1568年ころ、安見右近が私部城を建築したときは、松永久秀やその背後の織田信長の勢力下にあったので、強い武力を背景に、寺の土地を強制的に奪い取ったと思われます。

光通寺、1664年の棟札では、『信長配下の安見右近は、義も道もなく法をそこない、光通寺の壁を破り仏閣を地におとした』 そうして、のちに右近が自刃に追い込まれたことにつき、『天罰が下った。後世の人の戒めになる』と厳しく批判しています。

1668年といえば、私部城築城から96年、右近自刃から93年、本能寺の変の82年後のことですが、室町時代創建の由緒ある勅願寺にとって、安見右近の暴挙は、許しがたいものだったにちがいありません。


△私部の戦国時代にフォーカスしながら、今回の史跡めぐりは、いよいよ最終の私部城へ足を運びました。しかし、史跡めぐり参加の皆さんが、ドラマティックな安見右近の生涯のガイドの果てに見たものは、荒れ果てたような野っぱらの二郭、ただの田んぼの堀跡だけでした。
城跡らしいものは、何一つ、見当たりません。

◆しかし、ガイドさんが、手に汗にぎるドラマでも見るように、その日一日、私部城を語りましたので、「ガイドさんの弟子になりたい」という志願者がたくさん現れました。

◆ご覧いただき、ありがとございました。