第3回 交野史跡めぐりが行われました

◆『渡来系村長の古墳のまち、古民家博物館のまち─倉治(くらじ)』

◆10月14日(金)10:00~12:30 交野史跡めぐり 第3回 倉治コースが行われました。ガイドは、交野市星のまち観光協会の桝田 恵さん、山崎美加さん。

◆倉治地区は、交野の象徴、交野山(こうのさん)の山裾のまちで、古くから、織物の技術を携えて移り住んだ渡来系の人たちで栄えました。「交野の始まりのまち」ともいえます。

◆それらの集落の村長が埋葬されたと見られる古墳が数多く発見されています。今回は、そのうちの、清水谷古墳を見学しました。因みに、山麓深くには、誰でも墓穴に入れる古墳もあります。

◆特に、大がかりに発掘された「関西電力敷地跡」の古墳時代後期の『倉治古墳群』跡には、「古墳塚」と記した古墳碑が建てられており、その出土品は、交野市立教育文化会館の展示室で、詳しく見学できます。今回は、展示物の説明はしませんが、ぜひ、ご自分で見学してください。

◆また、倉治地区の、住宅開発の進んでいない旧村地域では、昔懐かしい古い家々が並び、まるで「古民家の博物館」のようです。


△集合場所の交野市教育文化会館前からは、交野山が正面に見えます。


△歴史民俗資料展示室があり、古墳の出土品が展示されています。



△「三角板革綴衝角付兜」(さんかくいたかわとじ・しょうかくつきかぶと)など、古墳の出土品が展示されています。



△聖武天皇の大仏建立に携わった渡来系の工人が住まいしたのが、地名の由来ともいわれる「大仏町」。
公民館の前に、早速、広い前庭のある古い屋敷がありました。







△地番表示は「倉治六丁目19」。
このあたりは、「長屋門」「白漆喰の壁に焼杉板塀」「白漆喰土蔵」が建ち並び、まさに、生きた「博物館」です。
建替えや改装のとき、地区の人々は「伝統様式」を守っておられます。交野では、ほかに、神宮寺、私部、私市、星田地区などでも、同じような古民家が、住民の意思で護られています。

交野市の政策として残す努力をしないと、「古い歴史文化のない」、つまらない交野市に落ちぶれるでしょう。
『ローマは、一日にして成らず』といえるでしょうか。



△このあたりは、交野山の扇状地ですから、村の中には、清らかな湧水が流れ、水道のない時代は、住民の「洗い場」(キッチン)となっていました。
ガイドの桝田さんが差し示す板は、流れを堰する板、緊急のダムをつくるためのものです。
因みに、島原市は雲仙普賢岳、滋賀県高島市は箱館山の湧水を、うまく観光資源に生かしています。




△機物神社の木々は、交野市の指定樹木となっています。


△機物神社は、昔、この集落の氏神、漢人庄員を祀っていましたが、平安時代になって、交野が「七夕の里」といわれはじめると、「七夕姫」を祀るようになりました。鎌倉時代といわれます。



△境内には、七夕まつりの「願い短冊」の源形といわれる、毛筆で字の書ける「梶の木」、釘などで字を書くと消えない「たらようの木」が植えられています。
「たらようの木」は、「葉」に書けるので「ハガキ」の語源になったといわれ、切手を貼れば、今も、郵便ハガキとして利用できます。
また、梶の葉は、平安時代、七夕の夜、貴族が、和歌を毛筆で書いて庭先の「たらい」に浮かべ、水面に映る「織姫と彦星」を観賞して楽しみました。



△『夜泣き石』:弟が盗賊に殺された敵討ちに殺した「女盗賊の頭」が、実は、実母だったと知り、源氏の滝に投身自殺した「源氏姫」の鳴き声が、毎夜聞こえるという伝説の石です。源氏の滝の入口付近にあります。(『伝説の河内』に掲載)


△源氏の滝の近辺は、秋、紅葉が美しく、50年まえころまでは、「川床」などが設けられ、大変賑わい、京都の料亭も出店していました。源氏の滝は、「大坂みどりの百選」に選ばれています。



△交野は、『巨石のまち』で、鎌倉時代以降、巨石を巡る「修験道」が盛んに行われ、磐船神社、獅子窟寺、竜王山、交野山などの霊場で修行を終えた後、源氏の滝で身を清めたといいます。

源氏の滝のすぐ上の交野山の観音岩には、霊場の象徴の梵字が刻まれていますが、この滝にも、 不動明王を象徴する梵字「カーンマーン」が刻まれています。


△古墳塚と倉治古墳群:1951年、関西電力変電所建設中、八基の古墳が見つかりました。その出土品は交野市歴史民俗資料展示室に展示され、人骨や壊れた石室などを埋葬して、碑を建て、古墳塚と呼んでいます。
しかし、説明の看板も何もありません。いわば、野ざらし状態です。
正面の山は、交野山の頂上です。




△清水谷古墳:古墳の入口は、風雨で風化しないように屋根が作られ保護されています。しかし、一帯は、野ざらし状態、辛うじて「清水谷」が読める程度で、まったく放置されています。

◆交野の貴重な古墳群を、70年以上も前から発掘し護ることをリードしてきたのは、現在の交野古文化同好会の、見識が高く研究熱心な先輩たちでした。放置すれば、消え去る運命だった土地開発による古墳破壊を、民間の熱意によって、保存、研究へとリードしたといえましょう。

◆大阪近郊で、まだ未調査の古墳も含め、1300年以上も前の古墳を調査研究できるのは、おそらく交野が「最後の秘境」でしょう。
日本の歴史研究のためにも、行政は、古文化同好会に予算を提供し、交野の古墳の研究・発掘、維持・公開を民間の発想でリードされるよう対策されてはいかがでしょうか?



△このあたり、東倉治はかつて「清水谷」と呼ばれ、交野山の扇状地の頂点にあたります。したがって湧水も豊富で、土地開発が進んだのちも、その一つが、倉治地区によって「蟹川の泉」として保存されています。

◆倉治コースガイドは、こちらでご覧になれます。

◆ご覧いただき、ありがとうございました。

( 文責)交野市星のまち観光協会 事務局長 佐藤義也

 

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