七夕伝説の里交野

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1.交野は、なぜ、七夕伝説の里とよばれるのか?

 

註 この図柄は、「交野市史 民俗編」 表紙裏から引用しました。

◆始まり 

  桓武天皇が、長岡京へ遷都するとき、当時の中国、唐の国のならわしにしたがって、遷都する都の真南に、2回  交 野郊祀(こうし),つまり北極星を祀る天壇を築き、今ふうにいえば、地鎮祭をしました。(785、787年の冬至) その真南に位置するのが、交野が原でした。

    その天壇の位置ですが、「交野の柏原の野」、現在の枚方市片鉾の西南あたりとされますが、まだ特定されていません。

註1. 「交野市史 交野町略史 復刻編」 130頁、 瀬川芳則 西田敏秀 馬場隆弘 常松隆嗣 東 秀幸「枚方の歴史」 松籟書店 2013年 87頁

 ◆平安貴族のリゾート地 

 交野が原へ平安貴族が訪れると、桜は美しい、雉はたくさんいると評判になり、たちまち平安貴族の桜狩り、鷹狩りのリゾート地となりました。  

天の川と七夕伝説

 ここには「天の川」と呼ぶ川が流れているので、当時、すでに大陸から伝わっていた七夕伝説にちなんで、 平安貴族は、ここを七夕伝説の地と見立   て、七夕の和歌などを詠み、風流を楽しみました。 そのときの和歌や随筆 がいまに残ることになりました。

 

◆代表的な和歌 在原業平(古今和歌集、伊勢物語)

  狩り暮らし 棚機女(たなばたつめ)に宿借らむ 天の川原に我は来にけり

  (意味)1日狩りをして陽も暮れたので、織姫さまに宿を借りよう せっかく七夕伝説で有 名な天の川に来たのだか  ら

 ◆リゾート地の場所は? 

 約1200年前,天の川が淀川へ流入する地域、今の京阪電車「宮之坂」近辺    から東方面の淀川にいたる丘陵と平野地帯で、「禁野」という地名は、当時 の名残りです。ここは、直轄領で一般人の立ち入りを「禁じた野原」だっ たのでした。 この丘陵には、百済寺跡があります。  

 註2.交野が原と桓武天皇、七夕伝説については、「交野市史 交野町略史 復刻編」 130 ~137頁に詳しく記述されています。  

註3.ここに百済寺跡の写真を掲載しましたのは、交野が原のシンボルとしての意味からです。

▼日本では他に例のない伽藍配置で、奈良の薬師寺に似て、西塔と東塔がありました。

<西塔跡>

    ◆750年、渡来人百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)がここに百済寺を建てます。

  日本の国家形成と文化に大きな影響のあった百済国は、660年新羅と唐の連合軍によって滅ぼされます。その最後の王子、禅広は、朝廷に仕えて百済王(くだらのこにきし)の姓をたまわり、難波に住まいします。敬福は、禅広の曾孫で、749年、赴任先の陸奥で黄金を発掘し、大仏建立のための黄金に困窮している聖武天皇に献上します。大喜びした聖武天皇は、敬福を7階級特進させ河内守として与えた土地が、今の枚方市中宮あたりで、敬福はここへ本拠を移します。

こうして、敬福によって建てられたのが百済寺ですが、その一族は桓武天皇をはじめ天皇家とも関係が深く、特に多くの女性が後宮に入りました。

桓武天皇は、12回、交野が原へ遊猟に来ていますが、交野への頻繁な遊猟も交野天壇の地が交野が原であったのも、中宮の百済王氏との緊密な関係ゆえとされます。強いていえば、百済寺を建立した敬福かいなければ、桓武天皇の交野遊猟もなかったかもしれないし、そうすれば交野が原もなかったかもしれないとも、考えられるのです。

▼東塔跡

 

◆ご覧いただき、ありがとうございました。  

 

 

 

2017年8月9日