郡津駅、実は、五条通にあった

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◆古代條里制の五条通を示す碑 P1000322                     P1000339  P1000345

●村上雅也さんから教えていただいたので、早速、五条通の碑を撮影してきました。

●思った通り、碑は、旧東高野街道沿いに建っていました。ちょうど万代の東の裏方向あたり、18号線(東高野街道)の高架下から郡津小学校へ向う道を入ってすぐにあり、郡津駅から徒歩5分ばかりです。

●やっぱり郡津駅は、五條通にあった、といえるでしょうか。

●旧東高野街道は、京都の東寺から高野山へと続く昔の幹線道路、写真の碑の左は京都へ、碑の右は星田を経由して大東市などへと続きます。約10年前、ここ旧東高野街道の写真撮影に訪れたとき、京都方面へ向かう道には田畑と古い家並が続き旧街道の趣きが残っていました。いまは、もうそれも失われています。

●約400年前、徳川家康は二条城から籠に乗ってこの道を通って星田の平井家へ着き、大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼしました。

●約150年前、鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍は、この道を通って大阪城へ逃げもどりました。幕府から「戸板運搬」の司令が出て、交野でも、幕府軍の負傷兵を担架代わりの戸板に乗せ、村の境界から境界へと運んだと、先年95歳で亡くなった機物神社故中村宮司が母から聞かされたと、いってられました。

交野の郡衙(ぐんが:役所)の跡

P1000304  P1000300

●大化の改新(645年)で国郡制がとられて国には国司、郡には郡司が置かれ、班田収授法が制定されて土地管理の方法として條里制がしかれました。

●交野にも郡司が任命されて役所(郡衙)が現在の郡津に設けられ、條里制による班田からあがってくる租(米の現物税金)がこの役所に集められ、役所(郡衙)の近辺は栄えました。(交野市史 民俗編 352頁)

●その役所跡の碑が、明遍寺の傍らに建っています。

◆明遍寺

P1000284   P1000290

●五條通の碑からしばらく旧東高野街道を京都方面へ向かうと明遍寺があります。中には、創建者明遍僧都が座ったという石が置かれています。

●大化の改新のあと、このあたりは、交野の米の集積地として栄えたというのです。

◆奈良でも京都でも、條里制がしかれたところは、奈良なら三條、京都なら一條から十条まで地名としてその名残をとどめるのに、交野は、なぜ、残っていないのでしょう。

 

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